福島県相馬市に来ています
こんにちは。PSWの上久保です。
おととしの11月にも伺った福島県相馬市に、1月26日の夜から29日までおじゃましています。
福島に行くと言うと、みんなに「大丈夫?」って心配されました。温暖な浜松「らしい」のですが、その浜松でも寒い寒いと言っている私が、東北の福島に行ってどうにかならないかと、本当に何人もの人に言われました。
確かに、昨晩福島駅に降り立った時には粉雪が舞っていて、芯から冷えて、恐ろしいところに来てしまった・・・と思いました。
今朝も相馬にはうっすら雪が積もっていました。写真はホテルの9階の部屋から撮ったものです。
でも、今日は「あたたかい」のだそうです。昼間の気温は5度くらいだったみたいですけどね。
日本って狭いけれども広いですね・・・。
ヒートテックに守られて、とりあえず今日は大丈夫でした。
あ、大切な被災地支援の報告のはずなのに、つい、寒暖の話になってしまいました。ごめんなさい(>_<)。
以下に被災地での記録を書きますね。
被災地でのアウトリーチ活動へのお手伝い
今回も相馬市にある相馬広域こころのケアセンターなごみさんに伺いました。なごみさんは来年度より訪問看護ステーションとケアセンターとに分かれて活動をするということで、ぴあクリニックと訪問看護ステーション不動平(ぽっけ)との活動のノウハウをお伝えするということが主目的となっています。
この1月におおまかなところ、そして2月と3月にやはりそれぞれ3日間おじゃまして、より具体的なことなどもお伝えしていく予定です。
1年と2ヶ月ぶりにおじゃましたなごみさん。以前はクリニックの2階にオフィスがありましたが、隣に移りました。この画像の右の建物です。
今日は、センター長の米倉一磨さんとご一緒させていただきました。
午前中はまず、なごみで行っているサロン活動への当事者さんのお迎え。ぴあクリニックでも虹の家に行くためのお迎えをしていますが、そんな感じでしょうか。
そして、次の訪問では、Kさんのお話を伺いました。
日当たりの良い復興住宅のお部屋で、「これ、うまいんだぞ」とまどか饅頭をふるまってくださったKさんのお話は、饅頭のおいしさとは裏腹のものでした・・・。
被災した方の発表のための聴きとりに
Kさんは、近々、ご自分の体験を報道機関などの前でお話ししてくださるそうで、ちょうど今日そのためのスライドを作るのだそうです。ぴあクリニックでも当事者のみなさんに発表していただくことが多いので、いっそう興味深かったです。
聴きとりは、やはりスタッフの須田さんが主にお聴きして、それを米倉さんが一生懸命タイピングするというかたちでした。それをもとに、スライドを作成するそうです。
新居先生と同い年のKさんは、日当たりの良い復興住宅のお部屋で、ポツリポツリとお話をしてくれました。
Kさんは海の近くの相馬市磯部地区に暮らしていらっしゃいました。これは磯部地区の震災前の写真です。
日本のふるさと、懐かしい光景ですね。
坂が多い磯部地区ですが、Kさんはそんな坂をものともせず、元気に自転車でいろんなところに出かけていたのだそうです。
助かっているんじゃないか、どっかから帰ってくるんじゃないか
Kさんは常磐線原町駅あたりで被災しました。
磯部地区は海の近くですが、Kさんのお宅はそのあたりのなかではいちばん高いところにあったので、大丈夫だろうと思っていたけれども、「ぜんぶ(波が)くぐってしまった」、全てが流されてしまったそうです。そのときに、お宅にはネコが2匹いたのだけれども、そのネコも流されてしまったのだろう、申し訳なかった、かわいそうだったと何回もおっしゃっていました。
そして、もう一人。Kさんの長男さんは消防団の団員でした。津波から住民を守るために活動されていました。Kさんは長男さんのことが心配で、一生懸命何回も長男さんの携帯電話に電話をしたそうです。けれども、一度だけつながったものの、その後全くつながらず。
ご自分は被災直後は地域の磯辺小学校に避難、そのあとすぐにはまなす館での避難所生活が始まりました。(そのころの記事がこれです▶http://doc-jouhoku.com/saitou/?p=189)
被災した翌日から、遺体安置所を探したそうです。毎日毎日。しかし、なかなかご遺体が見つからない。
助かっているんじゃないかって思ってたんだ。
あんな冷たい海だから、助かるわけないって思うんだけど、もしかしたら・・・って思ってたんだけどね。
3月19日にご遺体と対面。
よくテレビで見る、あの青いシートで顔だけ出てるので。
悲しかったのは、何もしてあげられなかったこと。せめて、からだにタオルでもシーツでも、布地を1枚かけてあげたかった。けれども、震災で店がやっていなかったから、そういうものを用意することすらできなかった。
ご自分も全てを失いながら、ただ一つの希望で、息子さんのご遺体を探している。たくさんのさまざまなご遺体を探す、たくさんのご遺体を拝見すること自体、精神的にどんなに大変なことだったことか。ましてや、その果てに息子さんのご遺体と対面するということ、弔いにあたり、何もしてあげられない無念さ、申し訳なさ。
聴いている自分のほうが、グラグラしてきます。
ご遺体はアルプス電気の工場などに安置されていたとのこと。アルプス電気は、私が泊まっている相馬ステーションホテルとなごみさんの間にあります。何回かその前を通っているのですが、そこにご遺体が並んでいらしたのですね。
改めて、それが、被災地なのだ、と感じました。
そこから被災直後の厳しい光景はなくなっているとしても、そこにはそのような被災の歴史があり、そのような被災の記憶がある。
反対に、震災前の光景は決して元に戻ってこない場所もたくさんあります。これらは、そのKさんが済んでいらした磯部地区。今日の午後行ってきました。さきほどの写真とのあまりの違い・・・。
この下の写真は、パノラマ撮影です。あたり一面、何もない。あるのは、壊された土台、枯れた草。
まだまだ、Kさんのお話は続きます。
息子が死んでいるのに・・・
避難所から今度は、応急仮設住宅へと住まいは移ります。もちろん避難所よりは良いとは言っても、入ったらすぐにトイレと台所。歩く必要すらないような狭さでした。
ここがKさんのいらした柚木応急仮設住宅です。
今は復興住宅に移ったり別の場所に転居したりで、4割ほどしか入っていないそうです。
それでも、安否確認も兼ねて夕食の配色サービスがあるそうです。SHIDAXのトラックはそのために停まっているのだそうです。こうやって今も地道な活動がなされているのですね。
この仮設住宅のサロン活動にKさんも誘われます。ドクターが仮設を回ってくれて血圧を測りながら健康の相談に乗ってくれたり訪問してくれたのはありがたかったそうです。
しかし、一方で、仮設のサロン活動で行われるレクリエーションにはなじめなかったそうです。
歌や踊りって、
人の気持ちも知らないで・・・
息子が死んでいるのに、歌や踊りなんて、
ばちがあたるような気がした
息子さんに何一つ用意することもできずに弔わざるをえなかったKさんにとって、「喪」の仕事はとても大切なものだったことでしょう。そのようなKさんにとっては、レクリエーションへの参加はそのような喪の仕事に反するものに感じられたのかもしれません。
それぞれの方にそれぞれのご事情があり、お気持ちがある。
おそらく、善かれ、と思って行われた営みなのでしょうが、Kさんのこの言葉をきくと、難しさを感じます。
何を食べてもうまくないんだ。
芯から笑うことはできないんだ。
今もそのような生活が続きます。いや、もしかしたら、今ごろになって、いっそう精神症状が出る場合もあります。実際に、今朝のなごみさんのミーティングでも「遅発性PTSD」の方の報告がありました。もしかしたら、これからそのような症状が出る方がたくさんいらっしゃるのかもしれません。
生活支援の積み重ねと環境の改善と
みなさん、読むのに疲れてきたのではないでしょうか。
私も、記録を書くのに疲れてきました。まだ明日もあるので、あともう一つだけ、書いて終わります。
このようなKさんが、少しずつ元気を取り戻す上でのきっかけの一つが、訪問による生活支援でした。
部屋にきてもらって掃除をしてもらったのが良かった
ゴミ捨ても、何もできなかったときに、ありがたかったとのこと。
また、住環境の改善も回復につながっているようです。
狭くて寒くて不自由な避難所から仮設へ
まだまだ狭くてプライバシーもなく寒い仮設から復興住宅へ
「こころ」の問題というのは、生活や環境と切り離すことはできません。こころのケアというけれども、もちろんそれ自体も大切ではあるけれども、生活や環境の改善によって、かなりこころの状態も変わってくるようです。
ここは、私たちが行っているACTでも大きな示唆を与えてくれますね。