助かっているんじゃないか、どっかから帰ってくるんじゃないか

 Kさんは常磐線原町駅あたりで被災しました。
 磯部地区は海の近くですが、Kさんのお宅はそのあたりのなかではいちばん高いところにあったので、大丈夫だろうと思っていたけれども、「ぜんぶ(波が)くぐってしまった」、全てが流されてしまったそうです。そのときに、お宅にはネコが2匹いたのだけれども、そのネコも流されてしまったのだろう、申し訳なかった、かわいそうだったと何回もおっしゃっていました。

 そして、もう一人。Kさんの長男さんは消防団の団員でした。津波から住民を守るために活動されていました。Kさんは長男さんのことが心配で、一生懸命何回も長男さんの携帯電話に電話をしたそうです。けれども、一度だけつながったものの、その後全くつながらず。
 ご自分は被災直後は地域の磯辺小学校に避難、そのあとすぐにはまなす館での避難所生活が始まりました。(そのころの記事がこれです▶http://doc-jouhoku.com/saitou/?p=189

 被災した翌日から、遺体安置所を探したそうです。毎日毎日。しかし、なかなかご遺体が見つからない。

助かっているんじゃないかって思ってたんだ。
あんな冷たい海だから、助かるわけないって思うんだけど、もしかしたら・・・って思ってたんだけどね。


3月19日にご遺体と対面。

 よくテレビで見る、あの青いシートで顔だけ出てるので。
 悲しかったのは、何もしてあげられなかったこと。せめて、からだにタオルでもシーツでも、布地を1枚かけてあげたかった。けれども、震災で店がやっていなかったから、そういうものを用意することすらできなかった。


 ご自分も全てを失いながら、ただ一つの希望で、息子さんのご遺体を探している。たくさんのさまざまなご遺体を探す、たくさんのご遺体を拝見すること自体、精神的にどんなに大変なことだったことか。ましてや、その果てに息子さんのご遺体と対面するということ、弔いにあたり、何もしてあげられない無念さ、申し訳なさ。
 聴いている自分のほうが、グラグラしてきます。

 ご遺体はアルプス電気の工場などに安置されていたとのこと。アルプス電気は、私が泊まっている相馬ステーションホテルとなごみさんの間にあります。何回かその前を通っているのですが、そこにご遺体が並んでいらしたのですね。

 改めて、それが、被災地なのだ、と感じました。
 そこから被災直後の厳しい光景はなくなっているとしても、そこにはそのような被災の歴史があり、そのような被災の記憶がある。

 反対に、震災前の光景は決して元に戻ってこない場所もたくさんあります。これらは、そのKさんが済んでいらした磯部地区。今日の午後行ってきました。さきほどの写真とのあまりの違い・・・。



この下の写真は、パノラマ撮影です。あたり一面、何もない。あるのは、壊された土台、枯れた草。

 まだまだ、Kさんのお話は続きます。