セイタカアワダチソウが生える線路

 私が泊まる相馬ステーションホテルからなごみさんまでは歩いて10分弱。散歩としては短いけれども貴重な運動の機会と思って歩いています。「相馬ステーション」という名前からもわかるように、JR常磐線相馬駅のすぐ近くのホテルです。
 右の画像は相馬駅の駅舎です。

 この町が古い歴史をもちその歴史を大切にしていることが伺われる重厚な雰囲気の建物と松ですよね。




 JR常磐線は震災の影響で、一部区間しか運転していません。相馬駅はその一部運行区間の端にあたります。相馬駅より北側を走る路線は復旧していません。駅からすぐ北側の踏切を渡ると、そのことがよくわかります。
 左が北側の3.11以降鉄道が走っていない線路です。

 「この間草を刈った」のだそうですが、それでもなお、草が生えています。
 これは、相馬駅南側の道路から撮ったものです。原ノ町駅行きの常磐線です。

 常磐線はこの地域で暮らす人たちにとっては、「仙台や東京に出るための電車」だったようです。なので、原ノ町から相馬という限定された区間だと、電車が走ることのありがた味はあまりないそうで、電車通学する高校生以外にはあまり利用されていないとのこと。
 原ノ町以南はそもそも立入禁止区域なので難しいのでしょうが、一日でも早く復旧して、相馬の人たちが気軽に安心して冬でも遠隔地に移動できるようになってほしいものです。







「ストレスがたまりすぎてるんだ」

 午前中は仮設住宅でのサロン活動とアウトリーチに同行させていただきました。

 小林先生(専門が何なのかお聞きするのを忘れてしまいました! お医者さんです)は会津からボランティアで来られているとのことです。サロンでは近所のおじさんというスタンスに徹しておられて、話に相槌をうたれたり、必要があれば血圧を測ったり、不眠だというおばさんのお話を傾聴されています。
 そのスタンスがとってもいい感じで、こういうお医者さんが被災地以外も含めてたくさんいらっしゃるといいのに・・・と思いました。
 仮設住宅で暮らしている方たちが三々五々集まってこられます。どこにでもあるお茶飲みの光景に見えます。が、話題はやはり震災によるストレスだったりします。
 NHK鶴瓶の家族に乾杯とかに出てきそうな、田舎のおばあちゃん☆☆という感じの素朴〜な感じの方から福島の独特のイントネーションで「ストレスがたまりすぎてるんだ」という言葉が出てくると、軽い違和感を抱きます。こういう表情のこういうおばあちゃんからは、のどかな言葉しか出てこない・・・と、TVのイメージによる先入観のなせるわざでしょうね。でも、現実は、震災特に放射能汚染によって何十年と暮らしてきた家を奪われ、生業を奪われ、生きてきた証である愛着のある物を置いて避難せざるをえなかった人たちです。この方たちの「ストレスがたまりすぎてるんだ」のストレスの重みを想像すると、違和感を抱くこと自体が誤りですね・・・。

どこまで踏みこむかーアウトリーチの難しさ

 小林先生と作業療法士の西内さんがサロン活動に従事する傍らで、看護師&社会福祉士の(どっちも持っているのがスゴイ)広田さんと一緒にこの仮設住宅で特に気になる方のお宅に伺いました。
 その方は仮設住宅にお一人で暮らしています。ご家族というか縁のある人が近隣に暮らしてはいるけれども、今までのいろいろな事情もあり、孤立に近い状態で、仮設住宅でもトラブルがあります。
 何回か広田さんが訪問されていることもあり、広田さんとは関係ができているので、同行する私も特に問題なくお宅に入れてくれました。浜松で暮らす私にはびっくりするくらいに大きなテレビ*1。暖房器具。部屋にはけっこう大きなショウジョウバエが何匹も飛び回っています。
 健康状態も決して良くはなさそう。サイドテーブルとベッドの下には、ゆうに20は超えるくらいのティッシュペーパーをまるめたゴミがたまっています。しかし、ゴミを捨てたりするのは「しなくていい」とのこと。ご本人の生活のスタイルがあるし、仮設住宅みたいなプライバシーないところに無理やり押し込まれて、しかもそこで「支援者」と名乗る人に押しかけられる・・・その不如意さを考えると、介入するべきではないのかもしれません。

  1. ケアと世話と余計なお世話と人権侵害。
  2. その人のスタイル、暮らしぶりをどのようにどこまで尊重するべきか。

 アウトリーチは枠がないところで行うだけに、この境界が見えにくくなります。

 でも、考えてみれば、2の項目自体がけっこう危険ですね。2の項目は「原則尊重、例外介入、そして例外はどこまでか」という感じの論理の立て方で、そもそも、介入を例外といいながらも「是」としている。
 けれども、そもそも、人は暮らしに介入されたくないものです。

 その人のスタイル、暮らしぶりを尊重するための介入という発想もあるけれども、これもまた、介入を「是」とする根拠となりやすい。

 改めて、アウトリーチにおいてどこまで踏みこむか・・・考えさせられました。

 今回は、すでにけっこう発生しているショウジョウバエの巣窟のゴミ袋1つだけを、仮設住宅のゴミ収集所に捨てさせてもらいました。けっこう風が強くて寒い日だったのでその方がゴミを捨てない可能性もある。けれども、今のハエが飛び交う状況だと、翌日になるといっそう大発生している恐れがあったためです。
 上の画像:東大生による支援♪ という貼り紙を仮設住宅の集会所で見つけました。東大生頑張ってくれ!他の大学の学生さんもぜひボランティアで頑張ってほしい!

ともに苦しむひと

 午後はチームのカンファレンスに参加、その後訪問、さらに夕方はぴあクリニックでの活動を紹介させていただきました。ACTを始めとするアウトリーチ活動と、虹の家のことをお伝えしました。なごみクラブという当事者の日中活動の場を発足させたばかりということで、アウトリーチとなごみクラブとをうまく連動させられるといいですねっていうことで、そのあたりをお伝えしました。

 その後、看護師の佐藤照美さんと、訪問のことで話をしました。福島でのアウトリーチと私たちが浜松で行なっているアウトリーチで、何か違いがあるのだけれども、それが何か・・・と考えている時に、そもそも関係性が違うと気づきました。

 これは、あくまで私の印象に過ぎませんが、浜松での私たちの関係性と福島での関係性が違う感じがしていました。ここについては、もっと後日きちんと丁寧に考えなければいけないのでしょうが、福島の場合には、支援者も支援を受ける人も、ともに「被災者」なんですよね。アイデンティティとしては、そちらの方が大きいのではないか。ともに、原発の被害、放射能汚染、将来の福島と自分の生活について悩む/苦しむひとである。その連帯感の方が、支援者−被支援者の関係性よりも大きいのではないか。
 臨床哲学の金字塔で、ケアに携わる人たちにとっても衝撃となった本である鷲田清一先生の『聴くことの力』の第8章(最終章)は「ホモ・パティエンス」です。 同書によれば、

夜と霧』を表したV・フランクルは、ずばり、「ホモ・パティエンス」と題した論考(1951年)のなかで、「理性のひと」にたいし「苦しむひと」を対置している。理性的な判断のひとである前に、苦悩を引き受けるひとであれ、そう静謐に語りだしている。人間という存在はそのもっとも深いところでは「受難」(passion)であり、つまりは「苦しむひと」(homo patiens)であるというのだ*2

 いろいろな事情のなかで、引き裂かれそうな思いをしつつも、相馬の地に居続けている人たち。相双地域の精神科医療がまさに崩壊したなかで、やはり引き裂かれそうな思いをしつつも、精神科医療をこの地で継続させよう、むしろ、より新しい精神科医療を興していこうと、なごみに集まった人たち。

 私たちも「ともに」ってよく使うけれども、「一緒に歩む」とかって言うけれども、それらよりもずっとリアルでずっと重たく深い「ともに」がここにあるんだなあと感じます。
 
 私のこのようなみかた/考えかたが、僭越だったり傲慢でないことを願っていますが・・・。

*1:どこに行ってもテレビがすごく大型でびっくりします。虹の家にある47インチくらいのものが普通のお宅にもポンって置いてあるし、仮設住宅のテレビも大きめです。だからどうっていうワケではないのですが。多分、いつも訪問するお宅だと30インチとかもっと小さいものとかが多いので、びっくりするのだと思います。

*2:・・・「引き受けたくて引き受けてるわけじゃない!」という声がきこえてきそうです。でも、まあ、ユダヤ人の強制収容所の体験があるフランクルが言っているので、許してください。