刈敷田仮設住宅での時間

原釜のみなさんです

 午前中は刈敷田仮設住宅サロン活動への訪問。伏見さんとやはり支援にいらした飯塚病院の小林 恒司先生とご一緒させていただきました。
 この仮設には一昨年の11月にも伺いました。そのときと同じ方々が5人ほどいらしていたように思います。多分座る位置もほぼ同じなのではないでしょうか。

 昨日が3.11で、いろいろな報道があったからなのか、「3.11のときの私」ということで話が盛り上がりました。
 刈敷田の仮設には相馬市原釜地区で被害に遭われた方々がいらっしゃいます。サロンに来られた方たちはお互い知り合いということもあって、「あんときはね〜〜〜」とかなり詳しい話となりました。

 相馬市には松川浦というとても美しい浦があって、その松川浦をちょうど「出た」ところにあるのが原釜地区です。

 この地図には2つのがありますが、上が原釜の海水浴場があったあたりです。海に直接面していたこともあり、原釜地区は「壊滅的」というよりもほぼ「壊滅」してしまいます。
 ちなみに、下のは尾浜の海道水産の建物です。
 以前もブログでそのときの建物を紹介しました。



この画像はまさに原釜の様子です。相馬市松川浦観光振興グループのサイトからアップしたのですが、このサイトは震災の記録をきちんとしようという姿勢がしっかりしています。興味のある方はぜひご覧になってみてください。

「そのとき」の語り@相馬市原釜

 Aさんが自分の体験したことを「みんなに伝えていいよ、そうでないと忘れっちまうから」と言ってくださったので、紹介します。

予感はあった

 3.11の数日?前の日の夜に大きな地震があった。自分はその地震があってから「なんか来るのではないか」「地震がまた来るのではないか」となんとなく思ってた。地震がないといいねえと友達とも言っていた。姑さんが日々「おれ(東北だと女性でも「おれ」と言うことがある)に何かあったらこのタンスに「ほまち」(ヘソクリのことだそうです)があるから、お前がとっていいから」と言っていた。
 それで、地震の当日の朝もなんかあったら・・・という予感もあって、姑さんにヘソクリを私にちょうだいとお願いしたが、姑さんは「ダメだ」と答えた・・・。
 なにしろ予感があったから、午前中にいろいろ掃除したりもしていた。

トイレの中で地震に遭遇

 姑さんには15時からヘルパーさんが来ることになってきた。その前に準備しておかないといけないからということで、ちょうど姑さんと一緒にトイレに行っていた。そうしたらものすごい揺れの地震がきた。介護保険でトイレには手すりをつけていたので、自分は姑さんと一緒にトイレの手すりにつかまりながら揺れがおさまるのを待っていた。
 
 しばらくしたら姑さんのヘルパーさんが来た。ヘルパーさんが、なんとうちに来て、
「今日は(姑さんの)清拭(身体をタオルでぬぐうこと)は無理ですね〜」
と言った。ヘルパーさんは地震が来たけれども、まずはうちに来なくちゃって思ったんだって。清拭なんてムリに決まってるよね〜(みんな大笑い)。パニックだったんだね〜。

紙パンツは忘れちゃいけねえ

 ものすごい地震だったから、津波が来る、逃げなくちゃいけないと思って、姑さんにトイレにいてもらって、2階に行っていろいろ必要なものを揃えた。姑さんのいろいろ一式。特に年寄りは紙パンツが必要だから、紙パンツを持って行かなくちゃ!!と思って紙パンツたっくさん持ってって。・・・自分のものは全然なんだ。紙パンツと姑さんの(大事な物)ばっかり持ってって(またまた大笑い)。
 それと、年寄りが「何かあったらまずはお位牌を持って行かなくちゃいけない」といつも言っていたから、お位牌を2つ、袋に入れた。でも、慌ててたんだね、お位牌の頭のところがが入らなくてねえ・・・。分ければ良かったんだけど、それも思いつかなかったねえ。

 家の中はもうグチャグチャで大きなタンスがバッターンと倒れていた。おばあさんがトイレにいなかったら、おばあさんもダメだったね。タンスに眠っている「ほまち」(ヘソクリ)を持って行かなくちゃ!と思って、重たいタンスだけど片手でググーッと上げて、ほまちをエイっと取って・・・けっこうあったよ〜。で、姑さんに「ほまち持ってきたから」って言って。それは、いろんなときに使った。ありがたかったよ〜。何かというとお金は必要だったからね。姑さんが「おれのほまち使ってるのか?」ときくから「はい! 使いました」って(笑)。

 部屋がグチャグチャで花瓶も倒れてて水が溢れてて。慌ててたからその水をふんで靴下が濡れたけれどもそんなことに構っていられなかった。靴下もどんな靴下履いているかなんてとても考えられなくて、大慌てでヘルパーさんが姑さんをおぶってくれて、自分がいろんな荷物を持ってって避難した。
 ・・・避難所に行ってふっと靴下見たら、色違いで。右はピンク、左は緑・・・あらまあ〜って思ったけど、もう遅いよね(大笑い)。

 原釜ではたくさんの人が亡くなった。自分の部落だけでも5人亡くなった。5人のうち3人は(ご遺体が)あがった。友達のKちゃんも亡くなったけれども(ご遺体は)あがった。Kちゃんのお嬢さんはかわいそうに、まだあがっていない。

Yちゃんと「バイバーイ」

 今ふりかえると不思議なことがいくつかある。
 Yちゃんのことも不思議。
 Yちゃんはいろいろ悩みがあって、自分のところに今までも週に2回くらいは来てよく話していた。でも、3月になったら何でかしらないけど、毎日来てた。うちに来て、お茶飲んで、いろんなこと話していて。Yちゃんとも「地震くると困るね〜、地震保険入らなくちゃね〜」なんて話していた。

 Yちゃんも津波でやられてしまった。今思うと、3月10日がYちゃんと話す最後だったんだけれども、Yちゃんと別れるときに、
「バイバーイ」
って言ったんだよね。

 ・・・いつもは「またね〜」って言ってたんだよね。でも、どうしてなんだろうね、「バイバーイ」って・・・。

 ・・・さよならしてたんだよね〜。

年寄りはいたほうが良い

 年寄りはね、いるとうるさんだけどね。いるとうるさいけれども、いたほうがいいね。
 年寄りがいたから、「戦争のころ(の物がない時代)には、すいとんを作ってたんだ」とか知っていて、自分はすいとんなんて作ったことがなかったけれども、すいとん作ったりね。ああ、昔の人はこうやって物がない時代を過ごしていたんだなあと思うと、がまんもできる。
 うるさいけれども(と合計10回くらい言っていらして、やはり大笑い)、年寄りの知恵はありがたいねえ。
 何かあったら、すぐにお位牌を持っていけとかね。

 

「もってけ」

 Aさんの語り口と、Aさんと同じく原釜でことごとく大切なものを失ったみなさんのはじけるような笑いが再現できず、残念です。かなり深刻な状況の話なのですが、身振り手振りで迫真の語りをするAさんと笑い飛ばすみなさん。私も一緒に大笑いしてしまいました。

 Bさんがみんなにと持ってきてくれたパイの実。みんなには2つ分けたのですが、私は遠く浜松からということだからでしょうか、3つくださいました。2つはそこでいただいたのですが、残りの1つを食べきれず「帰りの新幹線でいただきますね〜」と言うと、Bさんと語ってくれたAさんが「もってけ」とすごくさりげなく、自分の分を私に差し出されました。

 家を壊され流され、親しい大切なひとを亡くし、たくさんの厳しい目に遭い、見たくないものを見て、職を失いコミュニティを失い、今もなおプレハブの仮設にいざるをえないBさん。そしてAさん。

 それでもなお、遠くからきた私を気遣ってくれる。

 「もってけ」が、今もなお、私のなかで響いています。