わからなさに耐える

全く外部の自分が伺っていて抱くのは、わかりたいけれどもわからないし、わかったと思ったら多分わかってもらってないと思われてしまう、けれどもわかろうとする意欲を失ったら最後、全くわからないし、むしろ害になるという危うさです。

わからなさに耐えるというのは、重度の精神障害のある人への支援である程度は鍛えられているつもりです。

でも。
でも、福島ではそのわからなさ、到底自分にはわからないし、想像もできないという無力感がいっそう深く大きく自分に突き刺さります。

多分それは当然のことですよね。

むしろ、自分がそのわからなさ、無力感に鈍感になってるなあ、訪問している方たちへの繊細な配慮がなくなってるなあと別の観点から反省します。



自分がいま、ここにいていいのか。

厳しく問われることが多いのですが、それは普段の支援でも同じなはずなんですよね。。。